ササン朝ペルシア 〔歴史・イラン・文化〕

イラン南西部パールス地方にあるオアシス国家イスタフルの祭司長ササンの孫で、君主パパクの子のアルダシールが創始した。

アルダシールは226年パルティアを破って首都をクテシフォンに定め、「イランの諸王の王」と号した。

その子シャープール1世はクシャン帝国を攻め、260年にシリアでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とし、ササン朝の基礎を固めた。

「イランと非イランの諸王の王」と号し、それは後のササン朝皇帝の正式称号となった。

シャープール2世時代に発展期を迎え、ホスロー1世時代にはインドのグプタ朝と境を接して交易を盛んにし、シリア、イエメンを奪ってササン朝最大の領域を占めた。

しかしこの間、東方ではエフタル、突厥(とっけつ)など遊牧民族との紛争が絶えず、西方ではシリア、アルメニアの帰属をめぐってローマ帝国と、ついでビザンティン帝国との間に抗争と平和の時代を繰り返した。

その抗争は宗教戦争の性格を帯び、ローマ帝国がキリスト教を公認すると、ササン朝はそれまで保護していたキリスト教徒を迫害し、すでにローマ帝国と結んでキリスト教を採用していたアルメニアに対しては、ゾロアスター教への改宗を要求した。しかしビザンティン帝国に敗れると信仰の自由を承認した。

他方、北魏時代の中国には前後11回にわたって使節を派遣している。

カバード2世以後は、4年間に8人の皇帝や女帝が即位するほどの混乱期となり、この時代に、アラブ人イスラム教徒の侵入を受けた。

ヤズドガルド3世は642年ネハーバンドの戦いに敗れ、イラン全土がイスラム教従によって征服されていった。

ヤズドガルド3世はホラサーンのメルブめざし亡命したが、651年に暗殺された。
update:2010年02月01日